
ビザンツ帝国(東ローマ帝国)が1453年に滅亡したとき、それは単なる「一つの国の終わり」じゃなかったんです。
東西キリスト教世界の“最後の橋”が崩れた瞬間でもあり、ヨーロッパと中東のパワーバランスが一気に変わるきっかけにもなりました。
結論からいえば、ビザンツ帝国滅亡後のヨーロッパは、「オスマン帝国の台頭」「正教世界の孤立」「ルネサンスの加速」「新航路の探求」など、政治・宗教・文化の全方面で新しい秩序に向かって動き出したのです。
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まず最大の変化は、ビザンツ帝国が守ってきた“地理的防波堤”が消えたことでした。
メフメト2世率いるオスマン軍が、鉄壁の城塞コンスタンティノープルを陥落させ、 そのままビザンツ帝国の残りを吸収。首都は「イスタンブル」と改名され、新たなイスラーム帝国の中心都市になりました。
旧ビザンツ領の多く――ギリシャ、ブルガリア、セルビア、アルバニアなど――がオスマン帝国の支配下に入り、 キリスト教圏のヨーロッパと、イスラーム圏との境界線が西へと押し寄せてきます。
ビザンツが担っていた「イスラームの防波堤」という役割は、以後ハンガリーやオーストリア(神聖ローマ帝国)が引き継ぐことに。
この対立は16世紀〜17世紀の大オスマン戦争へと続き、ヨーロッパ地政学に大きな影を落とすのです。
ビザンツ帝国はギリシャ正教の総本山でもありました。その消滅は宗教面にも大きな影響を与えます。
イスラーム支配下でも総主教の存在は維持されましたが、実質的にはオスマン帝国の統制下に。 ギリシャ正教の独立性が弱まり、東方教会全体が後退していきます。
ビザンツ滅亡後、ロシアでは「モスクワこそ、東方正教を守る新たな中心地」とする“第三のローマ”思想が生まれました。
イヴァン3世はビザンツ皇女ソフィアと結婚し、自らをツァーリ(皇帝)と名乗ることで、 精神的にもビザンツの継承者を自認するようになっていきます。
意外かもしれませんが、ビザンツの滅亡はヨーロッパ文化に火をつけた要因のひとつでもありました。
滅亡前後、多くのギリシャ人学者・神学者・文献がイタリアへ亡命しました。 彼らが持ち込んだ古代ギリシア語文献や知識が、ルネサンスの“古典復興”に決定的な影響を与えたのです。
これにより、ラテン語だけに依存していた西欧学問にギリシャ語の波が押し寄せ、 プラトン、アリストテレス、ホメロス、ヒポクラテスといった古典作家たちが直接読めるようになったのです。
ビザンツが崩壊し、オスマン帝国が東西貿易の要所を抑えたことで、ヨーロッパは新しいルートを探さざるを得なくなります。
コンスタンティノープルや東地中海がオスマンに支配され、 アジアとの交易が高コスト化・制限化されていく中で、 「海を回ってアジアへ行けないか?」という新たな発想が生まれました。
結果として、1492年のコロンブスの“西回りインド航路”探検や、1498年のヴァスコ・ダ・ガマのインド到達など、 大航海時代が幕を開けるきっかけの一つになっていくのです。
このように、ビザンツ帝国の滅亡は単なる終わりではなく、ヨーロッパ世界が“中世”から“近代”へと踏み出す歴史的ターニングポイントだったわけですね。
戦争、宗教、学問、交易――すべての分野において新たな局面を生んだ出来事だったのです。