
ビザンツ帝国の戦史とそれを支えた軍事の特徴は、「防衛重視の粘り強さ」「制度と技術の工夫」「戦略的撤退と外交を織り交ぜたリアルな戦い方」にあります。
この記事では、1000年を超える帝国を生き抜いたビザンツの軍事と戦いの歴史を、主要な戦争と制度を軸にわかりやすくまとめていきます!
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ビザンツの戦いの歴史は、攻めるよりも耐える、戻す、持ちこたえるという粘りの連続だったんです。
東ローマとして独立した直後から、ペルシャとの国境戦争が続きます。
決定打はナインヴェーの戦い(627年)で、皇帝ヘラクレイオスが大逆転勝利。
でも喜んだのもつかの間、直後にイスラム勢力が急拡大してきます。
ヤルムークの戦い(636年)でシリアを失い、エジプトも喪失。
でも717年のコンスタンティノープル包囲戦では「ギリシャの火」でウマイヤ朝を撃退。
この戦いがなかったら、ヨーロッパ全体がイスラム化してたかも…というぐらい重要な勝利です。
10〜11世紀には反撃に転じ、バシレイオス2世がブルガリア帝国を撃破。
「ブルガリア殺し」とまで呼ばれるほど、徹底的に攻め抜いて帝国を最大領土に押し上げました。
1071年のマンツィケルトの戦いでセルジューク朝に敗北し、小アジアの主導権を失います。
これをきっかけに傭兵頼みの軍制が加速、戦力の質もガタ落ちに…。
第4回十字軍(1204年)では“味方”に帝都を占領されてビザンツは分裂。
1261年に奪還するも、国力はボロボロ。
最終的には1453年、メフメト2世率いるオスマン帝国によってコンスタンティノープルが陥落し、ついに帝国は終焉を迎えます。
ビザンツの軍事力は、「兵士の数」よりも「制度と戦略」で勝負してました。
7世紀ごろ登場した屯田兵制は、農民に土地を与えて平時は耕作・戦時は兵士という二刀流生活を送らせる制度。
地方に駐留し、その土地を守る防衛戦力としてめちゃくちゃ機能していました。
帝国を“テマ”と呼ばれる軍管区に分けて、それぞれに将軍(ストラテゴス)を配置。
これによって中央が崩れても地方が踏ん張れる体制ができていたのが、ビザンツの粘り強さの理由のひとつです。
後期になると軍事費の高騰や農村の衰退で、外国人傭兵に頼るケースが急増。
ヴァリャーグ親衛隊(北欧系)、ノルマン傭兵、カタルーニャ傭兵団などが活躍した一方で、給料トラブルや暴走も多発…。
結果として、軍の一体感はどんどん薄れていきました。
11世紀以降はプロノイア制という、土地の収益を与える代わりに軍役を課す制度が登場。
一見便利だけど、次第に世襲化→独立志向→中央弱体化という、封建化ルートに入ってしまいます。
数では劣っても、戦い方はめちゃくちゃ頭脳派でした。
ビザンツ最強の兵器といえばギリシャの火。
水に浮いても燃え続ける液体火炎で、敵艦隊を海上から炎で包むこの兵器は、まさに“中世のナパーム弾”。
成分は今も謎のままなんです。
ビザンツ軍は重装騎兵×軽装歩兵×弓騎兵などの混成部隊で編成されていました。
特にカタフラクト騎兵は、全身鎧をまとう衝撃力重視の精鋭で、西欧の騎士に負けないインパクトがありました。
ガチンコの会戦ではなく、地形・補給・時間稼ぎを重視するのがビザンツ流。
敵をじらして疲弊させたり、外交と連動して戦わずに勝つことも戦術の一部だったんです。
ビザンツ帝国の戦史と軍事を見ていると、「数じゃなく、頭と制度で勝つ」っていう姿勢がずっと貫かれてたことがわかります。
ガツガツ攻めるんじゃなくて、持ちこたえる。壊滅じゃなくて再起。
このように、ビザンツの軍事は“しぶとさと戦略”でできていた、そんな奥深さがあるんですね。