
ビザンツ帝国の歴史の流れは、「ローマの後継として始まり、栄光と試練をくり返し、最終的にオスマン帝国に飲み込まれて終わる」という、波瀾万丈の1000年ドラマです。
この記事では、建国から滅亡までの主な時代の区切りごとに、ビザンツ帝国の歴史をギュッと分かりやすくまとめて解説します!
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いきなり「ビザンツ帝国」が誕生したわけじゃありません。始まりは“ローマ帝国の東半分”でした。
ローマ皇帝コンスタンティヌス1世がコンスタンティノープル(現イスタンブール)を新しい首都にしたことで、ビザンツの歴史がスタート。
この街が、やがて千年帝国の心臓部になるわけです。
テオドシウス1世の死後、ローマ帝国は東西に正式分割。
476年に西ローマ帝国が滅亡すると、東側がローマ帝国の正統を引き継ぎ、生き残ります。これがいわゆる「ビザンツ帝国」です。
ビザンツの“黄金時代”とされるのが、6世紀のこの時代。
この皇帝はローマ帝国の再興を目指し、北アフリカ・イタリア・南スペインなどを奪回。
法典『ローマ法大全』を整え、巨大聖堂アヤソフィアも建設。
文化・宗教・軍事の面で“ビザンツらしさ”を一気に固めた立役者です。
あまりに戦いすぎて国家の財政がピンチに。加えて疫病(ユスティニアヌスのペスト)が人口と軍力を直撃。
このあと、帝国はじわじわと縮小モードに入っていきます。
7世紀以降、ビザンツは急拡大したイスラム帝国との熾烈な戦いに突入します。
イスラム軍によりヤルムークの戦い(636年)で敗北し、帝国の豊かな南部地域を次々と失います。
一気に“防衛する側”に立場が変わったんですね。
それでもビザンツは粘ります!
海ではギリシャの火(火炎兵器)、陸ではテマ制(地方分権型の軍事制度)で持ちこたえ、717年のコンスタンティノープル包囲も撃退!
9〜11世紀にかけて、ビザンツはもう一度大きな復活を遂げます。
バシレイオス1世以降の皇帝たちが、中央集権を立て直し、文化・経済も再び活気づきます。
イコン(聖像画)の再評価、古代ギリシャの学問復興など、まさに“ビザンツ・ルネサンス”!
彼は「ブルガリア殺し」の異名を持つほど徹底した軍事行動を展開。
帝国の領土は再び拡大し、政治も軍も最強状態に戻るんです。
12世紀以降、帝国は内側から崩れ、外からも責められる“板挟み地獄”に。
セルジューク朝に敗れ、小アジアの防衛線が崩壊。
ここで帝国は心臓部の農村地帯を失い、体力を急速に失っていきます。
本来“味方”であるはずの十字軍がコンスタンティノープルを略奪・占拠。
帝国は崩壊し、ニカイア・エピロス・トレビゾンドなどの亡命政権に分裂してしまいます。
復活したかに見えた帝国は、すでに体力を失っていました。
ミカエル8世パレオロゴスが帝都を奪い返し、ビザンツ帝国“復活”。
でももう領土はスカスカ、財政はスッカラカン。力を取り戻すことはできませんでした。
メフメト2世率いるオスマン軍が、ついにコンスタンティノープルを陥落させ、帝国は完全に終焉を迎えます。
最後の皇帝コンスタンティノス11世は戦死し、“ローマの血脈”もここで途絶えるのです。
ビザンツ帝国の歴史は、ただのローマ帝国の続きじゃなくて、変化と適応をくり返した独自の千年帝国だったんです。
宗教、文化、軍事、制度――すべてが絶妙に噛み合っていたからこそ、あれだけの長期政権が維持された。
このように、ビザンツは「終わったローマ」ではなく、「生き延びたローマ」だったんですね。