ビザンツ帝国の名前の由来

ビザンツ帝国の名前の由来

このカテゴリーではビザンツ帝国の名前に関する情報をまとめています。なぜ「ビザンツ帝国」と呼ばれるようになったのか、当時の人々が使っていた正式名称や、後世の歴史家たちによる呼称の変遷を通して、その背景を探っていきたいと思います。

ビザンツ帝国および東ローマ帝国の名前の由来

ビザンツ帝国および東ローマ帝国という名前の由来は、首都の旧名「ビュザンティオン」と、ローマ帝国の東半分としての継続性に由来する“歴史の二重構造”にあります。
けれど、面白いのは「当時のビザンツ人たちは自分たちをそうは呼んでいなかった」ということ・・・この記事では、そんな「ビザンツ帝国」「東ローマ帝国」という名称の由来と、その背後にある歴史的事情を分かりやすく解説します!

 

 

「ビザンツ帝国」の名前の由来

この呼び名、実は帝国の滅亡後に付けられた“歴史家によるニックネーム”だったんです。

 

古代都市ビュザンティオンがルーツ

紀元前7世紀ごろ、ギリシャ人によって建てられた都市ビュザンティオン(Byzantion)が、のちにビザンツ帝国の首都・コンスタンティノープルになるんです。
この都市名がラテン語で“Byzantium”となり、英語では“Byzantine”と変化。
そこから、後世の西洋の歴史家たちが、古代ローマとは区別する意味で「ビザンツ帝国(Byzantine Empire)」という呼び方を使い始めたんですね。

 

ビザンツ人自身はそう呼ばなかった

ビザンツ帝国の人々は、自分たちの国を「ローマ帝国(バシレイア・トン・ロマイオン)」、自分たちを「ロマイオイ(ローマ人)」と呼んでいました。
だから「ビザンツ帝国」っていう呼び方は、実際には外から見た名前、しかも事後的なものだったんです。

 

「東ローマ帝国」の名前の由来

ではもう一つの呼び方「東ローマ帝国」は、どこから生まれたのか?

 

ローマ帝国の“東側”としての成立

395年、皇帝テオドシウス1世の死後、ローマ帝国は東西に分裂します。
西ローマ帝国は476年に滅びますが、東側の帝国はそのまま存続し、これが後に“ビザンツ帝国”と呼ばれる存在になるわけです。

 

便宜的な歴史区分としての名称

この「東ローマ帝国(Eastern Roman Empire)」という呼び方もまた、近代以降の歴史学で使われるようになった言い方
つまり、「西ローマと区別するための用語」であって、これもまた当時の人々が使っていた正式名称ではないんです。

 

「ビザンツ帝国」も「東ローマ帝国」も、じつは現代の私たちが後から便宜的に呼んでいる名前であって、当時の人々はあくまで“ローマ帝国の正統な継承者”という意識を強く持っていたんです。
このように、名前一つ取っても、歴史とは“誰が、いつ、どう見たか”によって意味が変わってくるんですね。