
古代ローマ帝国が西と東に分裂したあとの「もうひとつのローマ」とも言える東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、じつに1000年以上のあいだ歴史の舞台に立ち続けた“しぶとい帝国”でした。でも、そのすごさって一体どこにあるのでしょう?
文化の保存? 軍事の粘り? それとも宗教的な影響?
ここでは、東ローマ帝国がなぜこれほどまでに世界史にとって重要だったのか、その秘密を小見出しごとにじっくり見ていきましょう。
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東ローマ帝国って、ただの“ローマの続き”じゃないんです。実はギリシア語圏で、哲学や文献、科学書なんかもギリシア語で継承されていました。
プラトンやアリストテレス、そしてヒポクラテスといった古代ギリシアの知識人たちの思想は、ここを経由してアラビア世界やヨーロッパへと受け継がれていったのです。
つまり、ルネサンスの「古典復興」って、ビザンツがいなければ成立しなかったかもしれないんですね。
また、東ローマ帝国はキリスト教の制度化でも非常に大きな役割を果たしました。
ニカイア公会議(325年)を開いたのも、当時のローマ皇帝コンスタンティヌス1世(272頃 - 337)でしたし、その後も教義の統一や異端の排除においては、皇帝ががっつり口出ししてました。
最終的にはカトリックと東方正教会に分裂するんですが、東側の教会制度と文化はロシア正教やバルカン諸国のアイデンティティの土台になっているんです。
7世紀以降、急激に勢力を広げたイスラームに対し、最前線で防波堤となったのがこのビザンツ帝国でした。
特にコンスタンティノープルは何度も包囲されながらも粘り強く耐え、東ヨーロッパへの拡大を一時的にせき止めた功績があるんですね。
だからこそ、ヨーロッパがイスラームに完全に飲み込まれなかったという見方もできるわけです。
ビザンツ帝国は、政治制度や行政、税制、そして軍事構造の中に、ローマ的な要素を残しながら中世的な仕組みへと進化させていきました。
そしてそれは、やがて西ヨーロッパの封建制度や王権神授思想、さらには「皇帝権と教皇権の関係」といったヨーロッパ政治思想にも波及していったのです。
ビザンツと西ヨーロッパは協力しながらも、どこかぎくしゃくした関係が続いていました。
とくに第4回十字軍(1204年)で、十字軍がビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを占領した事件は決定的でした。
この出来事によって、キリスト教世界はさらに深く分裂し、「東西教会の対立」という現代にも続く亀裂が生まれてしまったんですね。
こうして見てみると、東ローマ帝国って単なる“長寿帝国”ではなく、文化・宗教・軍事・政治の面でヨーロッパから中東にかけて広範囲な影響を与えた存在だったんですね。
世界史の流れの中で、表舞台から消えてもなお影響を残す—そんな帝国だったといえるでしょう。